ハリー・ライト wikipedia|無料辞書
|没年月日 =
|身長 =
|体重 =
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|プロ入り年度 = 1869年
|ドラフト順位 =
|年俸 =
|経歴 =
選手歴:
監督歴:
|選出国 =アメリカ
|選出年 =
|得票率 =
|選出方法 =ベテランズ委員会選出
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◆ 経歴・人物
ライトは有名な
クリケット選手だった父親の元に生まれ、その父がニューヨークのセントジョージズ・クリケットクラブにプロ選手として雇われた際アメリカに移住する。しかしハリーとその兄弟ジョージがアメリカで興味を持ったのは、クリケットではなく野球の方だった。ハリーは当時、
アレクサンダー・カートライトが参加していたニューヨークのニッカーボッカーズに加わり、クラブのリーダーとなる。
その後ライトは1866年頃にシンシナティのユニオン・クリケットクラブに雇われ、ほどなくプロの野球選手となった。当時既に30歳を超えていたものの、ライトがレギュラー投手として投げていたシンシナティ・レッドストッキングスはその強さを誇り、後の1869年にアメリカ全土を巡業しながら56勝負けなしという記録も残している。
1871年にプロの野球リーグである
ナショナル・アソシエーションが組織されると、ライトはボストンに創設されたボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)に選手兼任の監督として招かれる。ボストンは1年目こそ3位で終わったが、2年目から圧倒的な強さでナショナル・アソシエーションを4連覇する。ライトはその間1874年に、
アルバート・スポルディングらと共に野球普及のため
イギリスへ赴いて試合を行ったりもしている。
ナショナル・アソシエーション解散後、チームはボストン・レッドキャップスと名前を変え、1876年からナショナルリーグに参加、1877年、1878年にリーグ2連覇を飾ったが、1880年代に入ると成績が低迷するようになっていった。ライトはボストンからプロビデンス、フィラデルフィアと監督を歴任、フィラデルフィア・フィリーズの監督は1884年から10年間つとめた。彼は自分自身で試合の詳細なボックススコアをつけていたほど研究熱心だったそうで、1890年にはそれが元で目を悪くし、フィリーズの監督業から一時期はなれることになってしまったこともあった。
ライトは1893年を最後にフィリーズの監督を引退、2年後の1895年にニュージャージー州で死去した。
1953年に
アメリカ野球殿堂入り。
◆ 通算成績
※記録は全て1871年以降。数字の後の"(+)"は、記録不明箇所があることを示す。
◇ 通算打撃成績
◇ 通算投手成績
・通算:56試合、投球回164.7、6勝6敗、奪三振26、防御率3.81
◆ 監督としての戦績