1848年、ミュラーは駐英大使クリスティアン・C・J・フォン・ブンゼンによってイギリスに招かれる。ブンゼンは
イギリス東インド会社の援助によって『リグ・ヴェーダ』の校訂・翻訳を行う人物として、ミュラーに白羽の矢を立てたのである。翌1849年『リグ・ヴェーダ・サンヒター』全6巻の刊行が始まり(1873年に完結)、1850年に
オックスフォード大学教授。1854年には現代諸語のタイラー講座教授、1858年、
オール・ソールズ・カッレジのフェロー(研究員)となる。1860年、サンスクリットのボーデン講座教授の地位を
モニァー・ウィリアムズと争って敗れるが、1868年にはミュラーのために比較文献学の講座が開設された。
ミュラーは1875年に退官するが、1879年には『東方聖書』全50巻の刊行がスタートし、1894年に完結する。その6年後の1900年、イギリスに渡って以来オックスフォードに住み続けたミュラーは同地で死去した。
ミュラーが師事したビュルヌの甥が人種差別主義者で悪名高かったようにミュラーもまたそういった思想に影響された。ミュラーの研究は比較神話学に影響を与え、さらに、共通起源をもつとされた
インド人と
ヨーロッパ人には「
アーリア人」の名称が与えられ、その実在と拡散というモチーフをもつ歴史観もまた拡大した。これは、ヨーロッパの卓越性を証明づけるものとしての人種主義的な要素を含む「アーリア神話」となって後代に学問的のみならず、社会的、政治的にも大きな影響を与えることとなった。