応永23年(
1416年)11月20日栄仁親王没、翌24年(1417年)2月11日に栄仁親王の後を継いだ治仁王も急死し、貞成が後継となる。貞成には兄を毒殺した嫌疑がかけられるが、
後小松上皇や四代将軍
足利義持から安堵を受けた。伏見宮は北朝の正統であったために天皇家からは猜疑心をもって見られることが何かと多かった。応永25年(
1418年)に
称光天皇の仕女である新内侍が懐妊した際にも密通の嫌疑がかけられたが、義持のとりなしがあり、貞成は同年7月17日に起請文を提出するなどして辛くも虎口を免れた。
称光天皇が一時期危篤状態へ陥ると次期天皇の候補にもなり、応永32年(
1425年)4月16日には
親王宣下を受ける。だが、回復した称光天皇がこの報を聞くと激怒したため、わずか3ヶ月後の7月5日伏見指月庵で薙髮、
出家に追い込まれた。法号道欽。正長元年(
1428年)7月に再び称光天皇が重態に陥ると、六代将軍の
足利義教は貞成の実子である彦仁王を庇護し、後小松上皇に新帝の指名を求める。後小松は彦仁を猶子とし、
後花園天皇として即位させる。文安4年(
1447年)11月27日に貞成親王は
太上天皇の尊号を贈られ、
後崇光院と呼ばれた。翌5年(
1448年)2月22日に尊号を辞退した。