後二条天皇の死後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)
邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である
尊治親王に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王が後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。
これに後宇多法皇や
皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は
院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の
康仁親王を持明院統の
光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、
1333年に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって
木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。