そこで
1938年(昭和13年)
12月2日に当時の国有鉄道を運営していた
鉄道省内部に「
鉄道幹線調査分科会」が設立され、両幹線の輸送力強化に関する調査研究が開始された。さらに翌
1939年(昭和14年)
7月12日には「
鉄道幹線調査会」が
勅令をもって設立され、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、11月に結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。なおこの時、既に鉄道省内部では新しい幹線を引くということから「
新幹線」「
広軌幹線」という言葉でこの計画を呼んでいたが、
新聞など世間一般では弾丸のように速い列車が走るということから「
弾丸列車」と言う用語を使用するようになった。なお「新幹線」という言葉はこの時用いられたのが初めとされ、
戦後に当初「
東海道新線」と呼んで立案されていた「東海道
広軌別線敷設計画」も、後にこの表現を用いて「
東海道新幹線」と呼ぶようになっている。
また、関係者には初の本格国産機である「
国鉄8620形蒸気機関車」「
国鉄9600形蒸気機関車」を開発した
関西鉄道出身の鉄道技術者
島安次郎(よく、「満鉄の「
あじあ号」を開発した」との誤解が広まっているが、これは満鉄理事の任務を誤解したのが原因であり、開発に携わった痕跡が全く無い。もとよりドイツ流の設計手法を身に付けてはいても、「あじあ」の
機関車・
客車に用いられた
米国流の設計手法は身に付けてはいない)や、その息子で戦後東海道新幹線計画を推し進めることになった
島秀雄もいた。島安次郎は、かつて国鉄の標準軌化を目論んで計画を立てていたが、
立憲政友会の
原敬が横槍を入れて実現せぬまま終わったという経緯があり、独自に標準軌新線を敷くというこの案に乗ったのである。