本来は米国
心理学者によって人間の
身体の性別から期待される社会的規範から逸脱した行為を記述するため1980年代に使用され始めた専門用語で、
日本精神神経学会の定義では「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面で、人格的には自分が別の性に属していると確信している状態」とされているが、がいくつもの問題点があり、2002年の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン、第2版」では
削除された。現在この用語はWHO(
世界保健機関)による
ICD-10や米国精神医学会による
DSM-IV-TRにおいて用いられその定義には前者と後者とで差異があるが、およそ「(肉体とは)反対の性別に対する持続的な同一感とその肉体の性に対する持続的な不快感と肉体の性により課される役割に対する不適切感」といった意味を持ち、日本国内でも「
心の性と身体の性が一致しない状態」を好意的に表現する言葉として1990年代後半より一般に用いられるようになった。しかしながら「
広辞苑」においては2008年刊行の第6版に至って初めてこの「性同一性障害」という言葉が掲載された。現在も日本の「
広辞苑」に匹敵する英国の「Oxford Dictionary of English」、米国の「Random Haus Webseter's Unabridged Dictionary」、ドイツの「DUDEN Deutsches Universal Worterbuch」フランスの「Le Petit Robert」にもこの言葉は一切存在しない。それら諸外国の国語辞典において、英米語「」(独語「Transsexualismus」、仏語「transsexualisme」)がこの「性同一性障害」の意味内容に匹敵するものとして定義されている。現在
DSM-IV-TRにおいては本人の苦悩があることを条件に精神疾患とされている。しかしこの表現には2003年6月12日付けの
欧州人権裁判所の記録や2009年刊行の
国際法律家委員会の「性指向と性同一性と国際人権法」において性同一性(
性自認)が保護されるべき人格権とみなしている事実からも、少なくともヨーロッパ諸国において用いられることはほとんどない。
現在、日本では
生物学的概念としての男女のいずれかの身体形状に正常に属す身体をもっているにも関わらず、
性自認がそれと一致していないことを訴える症例は総じて性同一性障害と称されている。なおここで性自認とは、「自分のことを男と思っているのか、女と思っているのか」という自由意思によって変えることのできない自己意識のことを指す(参照)。しかし日本以外でこの用語が医療の現場を中心に一般に用いられるのは米国とカナダのみであり、法学会や当事者の自称としては米国でも用いられない。
そもそもこの「性同一性障害」という表現は米国の心理学用語が1994年にハリーベンジャミン国際性別違和協会の「治療の指標」においてtranssexualism(性別移行)に変わる表現として正式に用いられるようになり、日本にも伝わり用いられるようになった。日本においては、この
トランスセクシャリズムという語が「性別倒錯」としばしば訳され
性的倒錯(俗に言う変態)というイメージが強く残ったため、この「性同一性障害」という言葉を有識者が代用し普及したと考えられる。しかし現在欧米でこの原語にそのような否定的意味が伴うことはまれである。さらに「ism」という疾患を示唆する接尾語を避けた「transsexuality」という表現が並行してヨーロッパの法曹界を中心に使用される。とりわけドイツにおいてこの語のドイツ語形である「Transsexualitat」が一般的である。特に近年、海外の法律を紹介した書物の中は、「」ないしそれに対応する欧米語に強引に「性同一性障害」という訳語を当てはめているものが少なからずある。また現在でもこの言葉は「
性転換症」と訳され、性自認と身体の不一致である「性同一性障害」のうちその性自認が恒久的でその人の正当な人格として認められ、身体に苛まれるためがホルモン、手術療法を必要とする当事者について用いられているが、この「
性転換症」という表現もその当事者の性認識が変化するのではないため不適切である。ホルモンや手術療法はその当事者の法的権利の根拠となる人格の中枢をなす性認識に相応した身体を回復し、肉体による精神的苦痛を取り除き、性自認の性別の一員として社会的に承認され、活動するために不可欠なものであるため、肉体の性別を移行するものとして
性別移行の訳語がふさわしい。米国精神医学会の定義とは異なり、性別への違和感による一時的な
異性装者も包括したWHOの
ICD-10における「性同一性障害(GID)」に相当する内容には一般に
トランスジェンダーという表現が英語圏を中心に普及しつつあり、
国際連合の公文書においても採用されている。
論理的に「性同一性障害」という表現には恒久的な性自認「gender identity」が「disorder」(混乱、異常)であるという意味を含んでいる。ここで言う「disorder」は「personal disorder」(人格障害)と同じく精神の異常を意味する。日本語でいう
身体障害や
精神障害の「障害」にあたる英語は「disability」であり、「
障害者」を意味する英語は「handicapped person」であり、或いは差別的ニュアンスを避けるために「challenged person」「(障害の)克服者の意」が好ましいとされる。従ってたとえその性自認「男」、「女」以外であっても、それが
その人の手段ではなく目的としての価値を有する人格であり個性である以上「gender identity disorder」という表現は侮辱的とならざるを得ない。実際この言葉が米国で生まれた背景には
自我意識を科学的心理学から排除し行為のみをその対象とする
ワトソンを始めとした
行動主義心理学や思考を問題解決の道具とみなすプラグマティズムがその背景にある。ワトソンは
パブロフの
条件反射の理論を重視した。パブロフは犬の条件反射の実験から後に自由や目的をも外界の刺激から説明しようとした。
スキナーのオペラント条件付けの理論もこの影響下にある。これらは性別移行者の異性装を電気ショックで矯正しようとした、かつての精神療法の起源ともなった。これら一連の心理学の理論では例えば「生き物を傷つけるのはかわいそう」という良心や、「たとえ利益を生まなくとも弱者を困っている人を助ける必要がある」といった理想や理念は、科学や学問としての哲学から排除されてしまう。それが規範からの逸脱を「倒錯」ないしタブー視する「客観的科学主義」を生んだのである。こうした背景から「性同一性障害」という用語が新たに生まれ「
精神疾患」として精神医学の対象となったのである。