堀田は自ら京都へ向かい、条約勅許に尽力したが、武家伝奏への取次ぎの際、
中山忠能(なかやま ただやす)・
岩倉具視ら中・下級公家88人が抗議の座り込みを行う(いわゆる「
廷臣八十八卿列参事件」)など、
攘夷派の少壮公家が抵抗した。また孝明天皇自身、和親条約による薪水給与までは、あくまで港までの上陸となるため、「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場での異国との通商条約はこの秩序に変化をもたらすものであり「祖先に申し訳ない」と頑固な態度で拒否した。勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田正睦は辞職に追い込まれる。
ハリスはここに至って交渉を急ぎ、
アロー号事件で
清に出兵した
イギリスや
フランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐには、あらかじめ日本と友好的なアメリカと
アヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得した。新たに
大老に就任した
井伊直弼はこれを脅威に感じ、孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切った。
貨幣の交換比率は銀貨を基準に定められた。当時の日本の
金銀比価は金1に対し銀4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀が強く、物価は金基準では諸外国と同等、銀基準では格段に安かった。そのため幕府は金貨基準の貨幣の交換を主張するがハリスは銀貨基準の交換を主張して押し切り、金の流出・インフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった。