次いで
邦良親王の子・
康仁親王が
光厳天皇(
持明院統)の
皇太子に立てられるが、
1333年に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が
隠岐島から
京都に還幸すると、光厳天皇の即位は取り消されて、それに伴い康仁親王も皇太子を廃された。更に、後醍醐天皇は傍流にもかかわらず、自己の子孫による皇統独占に執着し、康仁親王の皇位への道をことごとく閉ざした。大覚寺統の血筋であるはずの木寺宮が持明院統(
北朝)寄りの立場を取るようになったのは、このためである。 『
康富記』によると、
康仁親王の後の木寺宮は、
邦恒王 ─
世平王 ─
邦康親王と3代を経て、室町時代中期まで存続した(
邦恒王・
世平王は早世したため、親王宣下を受けた記録がない)。
邦康親王の子には
師煕親王(
静覚入道親王)などがいるが、一等史料による限り、その後の子孫は確認されていない。
『龍雲寺文書』によれば、
永禄〜
天正の頃、当寺に「大宮様」が住んでいたが、
武田方の軍役を務めていたため、
徳川家康に攻められ、寺を焼いて
信州に逃走している(
1580年)。「大宮様」とは赤津中務少輔のことで、木寺宮(康仁親王)8世との寺伝がある。実際に
皇族の子孫などであった可能性は高いが、その詳細は不明である。なお、『
寛政譜』に
大沢基宿の母や
知久頼氏の妻の出自と伝える「木寺宮」はこの一族かと思われる。