藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず入封当初より苦しかった。このため早くから
専売制を敷き、
木蝋・
朝鮮人参・
木綿そして
鉄の生産を統制した。特に鉄は古くから
たたら製鉄、
たたら吹き(タタラ)により砂鉄から鉄を生産することが盛んであった。
享保11年(
1726年)5代・
宣維は田部(たなぶ)・桜井・絲原(いとはら)の大山林地主3家を中心に組合による独占制度での製鉄をおこなった。
7代・
治郷(号・不昧(ふまい))は特に有名な藩主である。先代・
宗衍の代より藩政改革に着手していた家老・
朝日茂保(通称・朝日丹波)を引き続き起用し、財政再建を推進した。このため
寛政年間(
1789年 -
1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになった。治郷(不昧)は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった
茶道にのめりこみ
不昧流を創設した。名器のコレクションも行っているが、そのカタログである「雲州蔵帳」、著書「古今名物類聚」・「瀬戸陶器濫觴(上中下三巻)」は茶道研究の重要な資料の一つとなっている。また、松江の町はこの時より
京都・
奈良・
金沢と並び和菓子の一大名所となった。しかしながら彼の文化的影響は茶・和菓子のみに留まらず、松江及び出雲地方では今日までも彼が好んだものは「不昧公好み」と呼ばれ(庭園・工芸品・
ぼてぼて茶などの地元名物等がある)、名が一つのブランドと化しているほどである。しかしながら反面、膨大な散財から再び藩財政を傾けることとなった。
同年には
隠岐騒動が起こり、統治していた松江藩代官が島民の蜂起により追放されるという事態となった。
江戸時代中期から頻繁に起こっていた隠岐での飢饉への対処不足、外国船の来航・上陸に対する無為無策ぶりなど島民の不満が高まり遂には武装蜂起となって表れた。代官追放後、島では自治政府が開かれ、一旦は松江藩に奪い返されたものの
鳥取藩・新政府の介入により再び自治政府が開かれ、後、鳥取藩の預かりとなった。明治2年
2月25日(
1869年4月6日)には廃藩置県よりも2年早く隠岐県が誕生している。