一方、同様の危機感を抱いていた
東山天皇も家宣の舅でもある
関白近衛基熙を通じて、実子である秀宮(直仁親王)に新宮家を創設させるための財政的な支援を求めてきた。このため、
宝永7年
8月11日(
1710年9月4日)、直仁親王を初代とする新宮家創設が決定され、8年後に霊元法皇(東山天皇の父、天皇は1709年に崩御)より直仁親王に対して閑院宮の宮号と1000石の所領を下賜された。こうして、
寛永2年(
1625年)の有栖川宮(高松宮)が創設されて以来の新宮家誕生となった。その屋敷地は、京都御苑の南西部に与えられた。旧閑院宮邸は、近年整備され、場所を変えずに江戸時代の遺構を残す唯一の宮家屋敷である。
霊元法皇が新宮家創設に反対したとする説があるが、法皇の天皇在位中にも新宮家創設を要望して拒否された経緯があり、自分の代には認めず親幕府派の東山天皇の要望によって認めたことへの不満があったとされている。