当時のイギリスでは
喫茶の風習が
上流階級の間で広がり、
茶、
陶磁器、
絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから
清へ輸出されるものは
時計や
望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ
[『近代の誕生 第?巻』p.113 イギリスの主要輸出品だった綿織物への需要はほとんど無かった。]、イギリスの大幅な輸入超過
[『近代の誕生 第?巻』p.113 清国は1810年 - 1820年には2600万ドルの貿易黒字を計上している。]であった。イギリスは
アメリカ独立戦争の戦費調達や
産業革命による
資本蓄積のため、
銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは
植民地の
インドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、
三角貿易を整えることとなった。
清では、既に
1796年(
嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していた。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、アヘンの輸入代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転
[『近代の誕生 第?巻』p.114 清国の貿易収支は1828年 - 1836年に3800万ドルの輸入超過になっている。]、清国内の銀保有量が激減し銀の高騰を招いた。当時の清は
銀本位制であり、
銀貨と
銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動し、銀貨1両に対して銅銭1000
文程度であったものが、銀の高騰により銀貨1両に対して銅銭2000文という比率になった。この頃の清では、税金を銀貨で納付するよう規定していたことから、日常生活で銅銭を使用し、税金の納付において銅銭を銀貨に交換していた農民は納める税金が2倍になった計算である。さらに銀が不足し値が上がる事は物価が下がる事と同義であり、清の基本的な税制である
地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。
林則徐はアヘンを扱う商人からの
贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。
1839年(
道光十九年)には、アヘン商人たちに
「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年
6月6日にはこれをまとめて焼却処分した
[実際は、海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって、アヘンを無害な物質に変えて処分したのであるが、その時の化学反応で発生した煙によって、焼却処分したと庶民の間では伝承されてきた。]。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
イギリスの
監察官の
チャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。そこで、
クェーカー教の教義に従ってアヘンを扱っていなかったトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。これに続こうとした商船をエリオットは
軍艦を出して引き止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。